ポケモンとハムレットの苦悩

心理学

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

 人は悩み多き生き物だ。これはかの有名なシェイクスピア、ハムレットの名台詞である。「死ぬべきか」という翻訳が強烈だが、ここで言う「死」と言うのは命を断つことではない。これまでの生き方を捨て、自分の本当にしたい生き方を選ぶことだ。今のまま生きるか否か、そのことに葛藤しているのである。

 大事な選択はいつも迷う。河合隼雄先生は著書の中で「心のなかの勝負は51対49のことが多い」(『こころの処方箋』〈1992〉新潮社)と述べている。心の葛藤は51対49のように僅差なことが多い。しかし、葛藤の多くは無意識に沈んでいる。意識に上がってくるのは表層だけなので、2対0の勝負のように感じられる。2対0ならば答えは決まっていて、キッパリと決断できそうなものだが、何故かモヤモヤと迷ってしまう。無意識の葛藤は深いからだ。

「Lサイズにすべきか、Mサイズにすべきか、それが問題だ」

 人は悩み多き生き物だ。これは私がユニクロでニットを選んでいる時の迷台詞である。「Mサイズ」という省略が強烈だが、ここで言う「M」と言うのはマクドナルドのことではない。これまでのサイズ感を捨て、自分の身体に本当にあったニットを選ぶことだ。今のままのを着るか否か、そのことに葛藤しているのである。

 自分で言うのも恐縮だが、私はかなり優秀な優柔不断である。飲食店ではメニューを決めるのに10分近くかかることがあるし、そもそもお店を決めるのに歩き回って足が棒になる。服を買いに行くと勇んでユニクロに入れば、30分も店内を彷徨い、最終的には神妙な顔で手ぶらで店を出ていくほどだ。「ビーフorチキン?」の問いはCAさんの眉間に皺を作る程悩むし、「セクシーなの?キュートなの?どっちが好きなの?」と、あややに聞かれたら年単位で保留する自信がある。

 なぜこんなに悩んでしまうのだろうか。選択には喪失がつきものである。選んだものが手に入ったとしても、選ばなかったことは失うことになる。失うことは悲しい。悩んでしまう。

 説明不要の大人気ゲーム、ポケットモンスター(ちぢめてポケモン)では、最初に3匹のポケモンの中から1匹を選んで冒険に出る。小学生の私は最初のポケモンを選ぶのに1時間近く悩んだ。悩んでいるうちに、電源ランプが赤くなり、ゲームボーイの画面が薄くなっていく。音量を消して画面濃度をMAXにするも、プツンと電池が切れる。まだ悩んでいる。新しい単三電池を4本セットし、ビッカビカに光る電源ランプに背中を押され、ようやく1匹を選ぶ。君に決めた。

 1匹を選んだ瞬間、他の2匹は手に入らなくなる。なんとも言えない喪失感が胸を締め付ける。一緒に冒険に行けなくて申し訳ない。その時、こともあろうかライバルの少年が、おもむろに1匹のポケモンを連れていってしまう。私が選ばなかったポケモンである。『連れて行かないで!』という思いが湧くが、選択しなかった私にそんなことを言う権利はない。自ら別れを告げた恋人に新しい恋人ができたとしても、何も言う権利はないのである。

 ライバルの少年は、更にその場でポケモンバトルを挑んでくる。なんと言うことだ。私は自分が選んだポケモンで、選んであげられなかったポケモンを倒さなければならない。残酷すぎる。そして、悲痛な鳴き声をあげるヒトカゲ(ほのおポケモン)を、フシギダネ(くさポケモン)の容赦のない体当たりで倒すのだ。ポケモンは喪失から始まる旅立ちの物語なのである。

 人は悩み多き生き物で、選択には喪失がつきものだ。しかし、多くの悩みにおいて、その選択肢に明確な正解はないし、明らかな誤りもない。だからこそ悩む。大切なのは選択しなかったものについていつまでも悩むよりも、自分の選択を正解にしていくことだろう。

 それは、失ったヒトカゲとの旅を憂うよりも、フシギダネとの旅をアメイジングなものにしていくことだ。失った人を嘆くよりも、目の前の人を大切にすることだ。自分の信じた生き方を豊かにしていくことだ。

 そうはいっても心は繊細だ。どうしたって悩む。そんな悩みにじっくりと向き合う時間も必要なのかもしれない。そして私はこのメチャクチャなブログのタイトルを、何にしようかとても悩む。

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