残業が終わって帰路に着く。エネルギーはもうない。抜け殻のような身体を電車に預け、今朝意気揚々と車両に乗り込んだ場所まで連れ戻される。この辺りからいつもあまり記憶がない。帰巣本能のままに、足が家に向かって動く。トヨタも驚愕の自動運転である。
そんな自動運転で帰宅する足が、ふと止まった。いつもの街並みと違う。街の一角がぼんやりと明るく、近くによるとほんのりと穏やかな音楽が聞こえる。コーヒー豆の気高い香り。カフェだ。カフェが営業しているのだ。営業時間短縮の要請がついに解除された。遅い時間の帰宅になってもカフェが営業している。嬉しい。
私はカフェが好きだ。コーヒーが好きなのは勿論のこと、カフェという空間そのものが好きだ。カフェは自由だ。お店に迷惑にならない範囲で、ゆっくり本を読んでもいい。スマホを眺めていてもいいし、ぼーっとただ外の景色を眺めていてもいい。親しい人とおしゃべりをしていたっていい。忙しい街の中で、ほっと一息つける安全な空間。都会のオアシスだ。砂漠にもオアシスにも行ったことはないが。
そんなカフェが、時短営業で20時には閉まっていた。街にカフェが開いていない、まさに緊急事態だ。街の中に自分の身を置くところがないのである。街から追い出され、家に閉じ込められる思いだ(感染拡大予防のためなので、まさにそれが目的である)。街に安心がない。カフェという安全基地があるからこそ、探索行動ができるのだ。
余談だが、初めて緊急事態宣言が出た時、国の打ち出した『基本的対処方針』の中で、宣言後も継続すべき事業として、インフラの運営、生活必需品の供給に並んで「喫茶店」と明記されている。感染拡大のリスクが高いようにも思えるが、喫茶店・カフェの重要性は国家のお墨付きだったわけである。
そのカフェが、今は20時を過ぎても営業している。これは嬉しい。意味なくぼーっと入ってみたりする。コロナ禍に入り、唐突に日常は失われた。失って初めてわかる日常のありがたみを、私達は幾度も噛み締めた。段々と日常が戻ってくる。それはとてもありがたいことだ。失ってわかるのでは遅い。手に入れた時にありがたみを実感したい。それが継続して与えられることに感謝をしたい。
日常が戻りつつある今、日常の何がどのようにありがたかったのか。注意深く観察してみたいと思う。
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