炭治郎と可能性と生きる悲しみ

心理学

 可能性がある、ということ。それはとても前向きで明るいことだけれど、実際にはどこか悲しさを含んでいる。 

 児童福祉の世界で傷ついた子どもたちと日々関わっていると、「もっとこうしてあげたい」「救ってあげたい」そうした思いが湧いてくる。何となく手を伸ばせば救える距離にあるように思える。だが、多くの場合それは幻想で、実際には自分のできることなんてたかが知れている。子どもが傷ついていくのを、ただぼーっと、眺めていることしかできないことも多い。

 もっと頑張れば、もっと残業をすれば、もっと話を聞いてあげられていれば、もっときちんと言葉にできていれば。もっと、もっと、もっと、もっと。できない自分に鞭を打ち、喝を入れ、頑張らせようとする。だが限界はある。断念する時がいつかくる。

 虐待をしてしまった親にも通じるところがある。虐待をしたくて子どもを産む親はいない。どんな親であっても、子どもが健やかに成長して欲しいと願っていたはずである。だが、子育ては思い通りにいかないことの方が多い。もっと頑張れば上手くいくはず。もっと厳しくすれば言うことを聞くはず。可能性は無限だが人の力は有限だ。いつか断念する時が来る。それはとても悲しい。

山田太一の小説の一節が頭に残っている。

『頑張れば成績は上る、上らないのは頑張りが足りないからだと子供を叱責する親も、わが子の体力を無視してなにがなんでも国体に出よ、オリンピックに出よとはいわない。知力だって体力と同じくもともと不平等なものだと考えるのが自然なのに、もう一ランク更に一ランク上の学校へと、可能性のぎりぎりを極めさせようとする。本人もそれを受けて立たないと挫折感を抱いてしまう。』〈 山田太一 編「生きるかなしみ」(1991)筑摩書房〉

 体力や運動神経については諦めがつきやすい。無理なものは無理だ。だが、知的な能力は見えにくい。頑張ればいくらでも伸びると思ってしまう。だが可能性のあるところには断念がつきものだ。悲しい。

 炭治郎も煉獄さんに守ってもらった時には「悔しいなぁ、何か一つできるようになっても、またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ」と無力感に苛まれ、悲しくなっている。可能性があるからこそ、先があると知っているからこそ悔しくなる。

 一方で、断念してみると、意外とホッとしていることもある。もう頑張らなくても良いと思える。心の平穏に大切なことは、可能性を追い続けることではなく、ある程度で断念することかもしれない。そう薄らと感じつつも、まだまだ断念できない事ばかりである。子どもの福祉を諦めたくない。

 このブログを始めて三週間と少し経つ。当初は「ブログを3ヶ月毎日更新するんだ!」と意気込んでいたが、意外と大変だ。こちらについてはあっさり断念するかもしれない。だが、もう少し頑張って見ようと思う。次男だったら我慢できなかっただろうが、私は長男だから我慢できる。頑張れ炭治郎。

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