新人類の隣人愛

心理療法について

日々誰かに救われながら生きている。

 職場で子ども達とクリスマス会をした。事前の打ち合わせなしに、唐突に皆の前に出て話す機会があったりして、とても緊張した。足が震えていたので間違いない。声だけは震えないようにと、お腹にグッと力を入れて何とか乗り切る。

 終了後は頭の中で反省会である。『あの発言は必要なかったのではないか』『あの人はドン引いていただろうか』前頭葉は反省会にキャパシティを取られ、機能しない。ボーッと虚を見つめる。心ここに在らずだ。

 そんな私の背中を、小4男児がポンと叩く。「でがらしさん、今日前に出て喋ってたねー」と一言。〈あの話、どうだった?〉と聞いてみようかと迷っていると、「卓球やろー」と誘われる。そのまま楽しく卓球をして自由時間を過ごす。

 何だかうまく言葉にならないが、救われた気持ちになる。私の行動に注目を向けつつも、それを評価することなく、ただ穏やかに一緒にいてくれた。そのことに救われたのだと思う。子どもに救われてどうするのだ、という超自我からの声もあるが、子どもだろうが大人だろうが人間と人間だ。救うこともあれば当然救われることもある。

 私は心理の専門家として仕事をしているが、人の心を穏やかにするのは必ずしも専門的な言葉ではないと思う。時としてこうした何気ない一言、やりとりだったりする。自分が救われる体験から学ぶことは多い。他者を支援するときのツールの一つとして、大切に磨いていきたいと思う。

 そして、こうした人の温かさをきちんとキャッチし、素直に受け取る私も偉い。自画自賛する私も偉い。自画自賛する自分を褒め始めたら無敵である。一生自分を褒められる。永久機関の誕生である。隣人にもお裾分けしたいと思う。

 

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