想起不能で再起不能

日常

学んだこともいつか忘れる。

引っ越しのために部屋を片付けていると、様々な学びの形跡が出てくる。

 例えば中国語の教科書。私は1年間中国に留学していたことがある。もう10年近く前の話である。当時は日常会話くらいは話せたし、国際中国語検定の最上級を保有していた。だが、帰国後は一切使用する機会がなく、中国語はどんどん忘れている。

 当時の教科書を見ると、びっしりと中国語が書いてある。私のメモもほとんど中国語だ。残念ながら現在は4割くらいしか読めないし、3割くらいしか話せない。あんなに頑張って学んだことも忘れている。少し寂しい。学んだこともいつかは忘れる。

 例えば、心理の研修資料。パワーポイントで作られた資料に、大量の手書きメモがある。読み返してみると、ふむふむなるほど、興味深いことがたくさん書いてある。つまり、忘れていたのである。パワポの資料はなんとなく捨てると罰当たりな気がして保管しているが、基本的に読み返すことはない。学んだこともいつかは忘れる。

 例えば、大学院の授業プリント。たくさんの知識で埋め尽くされている。読み返してみると、ふむふむ、わからん。難しい言葉で難しいことが説明されている。当時の自分はこれを理解できていたのであろう。知識量としては現役学生時代がピークであろう。学んだこともいつかは忘れる。

 忘れてしまうことはとても悲しい。だがこればかりはしょうがない。人間は忘れていく生き物である。知識を忘れたからといって全てがなくなるわけではない。

 中国語は忘れてしまったが、中国語を活かして異国の地でサバイバルした経験は、今も自分の中に残っている。多少のことでは動じない自分になった。大学院の授業で詰め込んだ知識は抜けているが、大事なエッセンスは自分の中に感覚として残っている。日々の仕事で活かしていることもとても多いし、使えば使うほど体に染み込んでいっている感覚もある。

 愛着とは何か説明しろと言われれば、教科書通りには覚えていないが、ある程度説明することはできる。知識としては忘れていたとしても、経験として自分の臨床の血となり肉となっている。

 知識はより豊かな人生を歩むためにある。知識そのものを忘れてしまったとしても、その知識のおかけで体験できたことは、消えない。これからも覚えるたびに忘れていくことだろうと思うが、忘れることを恐れてはいけない。

 知識をいかに貯蓄するかよりも、いかに使っていくかが大切だ。そう自分に言い聞かせながら研修の資料をボンボコ捨てていく。だって引っ越すのだ。しょうがない。ボンボコ、ボコボコ。

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