実家に帰る。
12月30日。クリスマスムードがどんどん薄まっていき、年末の香りがしてくる。昨年はコロナが猛威を奮っていたので、帰省できなかった人も多いことだろう。今年はオミクロンの気配を感じつつも、何となく目を背けて帰省する人が増えてくる。これでいいのだろうか。日本の未来はどうなるのだろうか。
と、日本を憂いたふりをてみたが、実際に憂いているのは別のことである。お年玉だ。勿論貰う側ではない。支払う側である。
去年回避できた親戚の子へのお年玉だが、今年はどうやら回避できそうもない。覚悟を決める。思えば甥っ子が小2の時、スーパボールを頭上から落として「これがお年玉だよ」と面白すぎるギャグを披露したのだが、びっくりするほど泣かれて、あげく顔を引っ掻かれたことがある。怖い。お年玉怖い。
今は中3の甥、100円200円ではすまされない。5千円くらいだろうか。今年は引っ越しにかなりお金を持っていかれたので、5千円は痛い。
甥と姪、併せて4人もいる。子育て支援をして、少子化を食い止めたいと日々奮闘しているが、親戚の子は増えなくてよろしい。というエゴイズムをごっくんと噛まずに飲み込む。胸の辺りにつかえが残る。
だが、考えてみると小中学生にとっての5千円は無限の可能性を秘めいている。なんだって買える、そんな万能感を味わうことができる。
私が中学生の頃を思い出す。お小遣いが入ると、ジャラジャラとした小銭を謎ブランドの安財布に放り込み悦に至る。古本屋を巡っては、小説や漫画を買い漁っていた。
一冊100円が基準となり、それより高いと手を伸ばすのに躊躇した。50円の本を見つけた日には、ホクホクした顔で帰路につき、我慢できずに帰りのバスで読みだす始末。そして車酔いでダウンする。そんな平均的な中学生であった。
そんな中学生にとって5千円は宇宙だ。限りなく広大で、50円の本などは100冊も買えてしまう。現在の私にとってはどうか。現在でも大金ではある。だが、大人になると生きているだけでお金が飛んでいく。5,000円は一度飲みに行ったら消えてしまう。悲しい。
今の私にとっての5千円と甥っ子にとっての5千円は価値が全然違う。そう思うと、お年玉をあげるというのは、資産の価値を爆上げさせる素晴らしい取引なのではないか。欠点があるとすれば、私のお金が減るということである。
その分私も子どもの頃、お年玉をもらっていたのだ。大人になって払うお年玉の前借りをしていたのかもしれない。今の私は子ども時代の私のように、トキメクお金の使い方はなかなかできない。良い投資だったように思う。そのバトンを繋いで行きたい。
私は前澤社長からお年玉を貰いたい。私にとって100万円は宇宙なので、是非。
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