イヤホンを失くした。
相当ふんぱつして買ったAirPods Proなのでとても悲しい。だが、悲しんだのも束の間で、すぐに発見された。嬉しい。昨日宿泊していた旅館に忘れていたらしい。自宅まで郵送で送ってもらえることになった。突然の分離となったAirPodsと、今更どんな顔をしてと会えば良いかわからないが、それは相手も同じであろう。いつもと変わらず出迎えようと思う。心配していたことだけは伝えるつもりだ。
しかし、AirPodsが帰ってくるまでの数日間、音楽を聞くことができない。これは深刻な問題だ。日々の通勤時間に音楽は欠かせない。考えてみれば、単独で屋外にいるときは常にイヤホンで耳を塞ぎ、音楽を流し続けている。これって異常なことなのではないのか。こんなにも私は音楽を愛していたのだろうか。自宅でくつろいでいる時には、別に音楽をかけていない。謎だ。
更に、電車の中では音楽を聴きながら、スマホでゲームをしたり、本を読んでいたりする。聴覚のみならず、視覚も奪われている。ごくありふれた日常だが、何だか少し寂しいような気もする。
みんな自分の世界に入っている。外部からの刺激をシャットアウトし、自分が聴きたいものを聴き、見たいものを観る。自分の世界は安心だ。コントロールが効く。聴きたくないものを聴かされる恐れはないし、見たくないものを観させられる心配も少ない。
なかなか思い通りにならない世界で、必死に自分の世界に逃げ込み、コントロール感を保っている。思い通りにならないことは不安だし、コントロールできることは安心だ。
例えコントロールを失ったとしても、まぁ何とかなるだろう、と社会に対してそこまでの安心感を持つことはできていない。社会には漠然とした不安感が蔓延しているような気がするし、緊張を強いられることも多い。通勤、通学、移動時間くらいコントロール感を保っていたいのかもしれない。
大人ですらそうなのだ、子どもたちは更にコントロール感が持ちにくい世界を生きている。さぞ不安なことだろう。だが、能力的な問題や、法律や社会通念の観点から見ても、子どもがより多くのことをコントロールできる環境を作ることは難しいだろうと思う。場合によっては制限することによって守る必要もある。
せめて、子どもが大人社会に対して安心感を持てるようになってもらえると良い。コントロールしきれず、どうなってしまうか分からないけれど、信頼できる大人が考えてくれているから大丈夫だろう。と、そういうふうに思ってもらえたらしめたものである。同時に、可能な範囲で子どもが主体的に選択・コントロールできる環境も作ってあげたい。
イヤホンをなくし、音楽のない帰路を歩きながら、子どもの支援について考える。給料が欲しい。
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