東京に雪が降った。
気がつくと、どこからともなく雪が降っていた。ひっそりと、しんしんと。東京で雪が降るのは珍しい。珍しいと言っても、オーロラほど希少ではなく、雷よりは少くないか、くらいだ。台風と同じくらいかもしれない。とにかく珍しいのだ。
私の働く施設の子供たちは、目をキラキラと輝かせ、喜び庭かけ回る。革靴で出勤したことを後悔し、帰りの電車は動くだろうかと心配している私を横目に、子ども達は雪合戦を始める。
あろうことか、私も強引に合戦に出兵される。赤紙をもらった私は、浅く積もった雪で作られた泥だらけの雪だまを延々と当てられ続ける。お国のために。
激しい雪合戦の横では、女の子たちが雪を使ってアイスクリーム屋さんを始めている。私もそちらに混じりたい。などと考えていると、後頭部に雪だまが当たる。大人気なく、こちらも雪だまを投げ返したりする。
雪で遊んでいる子ども達を眺めていると、なんだか少しホッとする。この極寒の厳しい環境の中で遊べているのは、施設での生活に多少なりとも安心感を得ているからだろうと思えるからだ。
子どもたちは遊びの天才だ。周囲にあるもので遊びを生み出す。だが、それも安心感があってのことだ。今雪合戦をやっている子ども達を突然無人島に放り込んだら、遊べる子どもはいないだろう。どうやって雨風を凌ごうか、食料はどうしようか、猛獣が出たらどうしようか。サバイバルの始まりである。
雪合戦で遊ぶには、少なくとも安心できる生活があることが必要だ。その上で、大人が暖かい衣類を提供してくれて、遊び終わったら体を拭いてくれて、温かいお風呂に入れる、という見通しがあることが大切なのだと思う。そこまで具体的ではなくても、困ったら大人がなんとかしてくれる、という安心感・安全感が必要だ。
そう思うと、庭で遊んでいる子ども達の様子に少し安心感を抱くのである。子どもは遊びの天才だが、遊べる環境を用意するのは大人や社会の仕事だ。
大人になると安心感は多くの場合に自分で生み出さなければならない。革靴で滑って転んでも、雪で電車が止まっても、どう対処するかは自分で考えなければならないのだ。だから、無邪気に雪を喜べないのは私が年を取ったからではない、私が自立しているからだ。そんな謎の言い訳を考えていると、左の耳に雪だまが当たる。
耳は痛い。寒い。
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